『 酒井 愁 - HISTORY 』
「板前編・"拾われた未来"」
〜最終章〜
その日がやってきた…
前日まで仕事をこなし次の日俺は世話になった人に一人一人に礼を言った…
あの番頭のジィさんや仲居のバァさん達にも…
思えば此処に来た時こんな風に人に感謝の気持ちを表す事すら出来なかった俺だった…
この温泉街で過ごした半年強は俺の人間性を司る色濃い時間であった…
今でこそ一言で半年と聞くと「たった半年」と思ってしまうがガキの頃の半年は不思議な事に凄く長く感じた…
此処で…この半年で…
忍耐力を知った…
脅威と恐怖を知った…
命の重さを知った…
世の中の仕組みの残虐さと優しさを知った…
感謝と人とのふれあいを知った…
人を傷つける怖さを知った…
己の弱さと小ささを知った…
本当の男の姿を知った…
そして…
愛を知った…
人間としての感情を此処で教えられたのだ。
この時も思っていたが現在でもこの期間が無ければ俺は今何をしていたのだろう…と時にふと考える事もある…
どうなっていただろう…
たまにゾッとする時があるのだ…
この世に居ないかも知れない…
間違いなくドラムなんて叩いていなかっただろう…
間違いなく人の道は外れていたには違いない…
ありきたりの言葉で言い表わしたくないが言葉が見つからない…なので敢えて使わせてもらう…
全ての人に全ての時間に感謝である…
実家に戻る事は最初から考えていなかった…
東京に戻りアパートを借りて一人で新しいスタートを始めようと考えた…
地元に帰るのではなく全く新しい地で…
地元に戻るのは意味が無いと思ったのだ…
誰も知らない地でドラマーとして音楽人としての自分を磨こうと自分を追い込んだ。
未成年なので予め家に連絡を半年以上ぶりにして許しを得た…
悔しいがアパートの保証人等になってもらわなくてはいけないからな…
彼女の両親の粋な計らいで一週間直美さんがついてきてくれる事を許してくれて最初の準備等を助けてくれる事になった。
自分を追い込んだつもりだったが実は物凄く心強かった。
荷物は少量だった…
しかし最初買って貰った…いや…俺が買ったんだった(笑)包丁は持って行く事にした…
これは今だに持っている…
そして準備を済ましホテルの皆に挨拶をすると俺達二人は駅に向かった…
米沢親方、五味親方、広瀬さん、佐久間くん、本田、山土井…そしてコーちゃんが見送りに来てくれた…
初夏…いや、まだ梅雨だったか…?
そんな季節に此処に来た俺は去る時は完全に冬だった…
17歳の誕生日に直美さんに貰ったコートを着ていた。
全員と堅い握手を交わして皆が激励してくれた。
本田と山土井は泣いていたな…
列車が来る時間となり俺達が改札に入る時に…
「酒井愁!!」
と呼ぶ声がする…
俺は耳を疑った…
コーちゃんが初めて俺の名を呼んだのだ…!
後にも先にもコーちゃんが俺の名を呼んだのはこの時だけだった…!
俺はそれだけで涙が出た…
「背中出せ!」
と俺のコートを捲り俺の背中に何かを書き出した…
書き終わると…
「コイツを背負っていけ!いいな…誰にも負けんな…!魂込めて叩け…!アキラの魂もオマエに委ねた事忘れんな!」
とコーちゃんは静かに噛みしめる様に…そして力強く言った…
初めてコーちゃんの目に涙を見た気がした…
皆に感謝の言葉と別れを告げて列車に直美さんと乗り込む…。
列車が走りだすと俺は様々な事を思い出していた…
色々な事があった…
ありすぎた…
走馬灯の様に激動の日々が甦って来ていた…
行きには一人だったがこうして東京に向かう列車の中には生まれて初めて愛する人が隣に居た…
暫らくするとコーちゃんが背中に何かを書いた事を思い出す…
ジャケットを脱いで見てみるとまた涙が止まらなかった…
音楽の事はあまり解らんと言ってたコーちゃんの精一杯の想いが流行り歌をもじりそこに書いてあった…
「汚ねぇ字だぜ…まったくよ…」
俺のせいで失った指…
その手で器用にコーちゃんが書いた文字をいつまでも泣きながら見ていた…
この文字に“魂”を感じずにはいられなかった…
俺は涙が止まらなかった…
“夜露死苦哀愁”
と書かかれてた…
俺は一生コイツを背負ってドラムを叩いてくと強く誓っていた…!